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錦鯉の歴史

錦鯉の国際化

錦鯉が今のように周知の存在として、私たち日本人の生活の中に根付くようになる大きな発展に寄与した存在としてドイツ鯉があります。
1904年(明治37年)にドイツの研究者から40尾のアイシュグルデン種の鯉が日本人水産研究者に長野県などでの食用鯉の改良などに用いるために贈られました。この40尾のうちの2尾が東京都深川在住の秋山吉五郎という人物の手に渡り、浅黄と交配によって1906年(明治39年)新種であるドイツ浅黄が生み出された。ドイツ鯉の特徴は鱗の形質を伝える強い遺伝力があり交配などで作り出された品種すべてに在来種の鯉と比べてその特徴を伝え、品種としての固定化も早くできるという利点があった。また、体形も在来種より大きく、成長速度も速いなどの特徴を錦鯉にも受け継ぐなど新品種の開発にとってドイツ種の存在はなくてはならないものとなった。
大正から昭和初期にかけて、錦鯉が社会一般に広く知られるようになるにつれ、品種改良や新たな品種の開発にも拍車がかかり、1932年(昭和7年)には新潟県水産試験場が阿賀野川養魚場を設立し、錦鯉の改良研究を本格的に開始し、同時に販売においてもこの年(1932年)から1934年(昭和9年)にかけては3万尾くらいの錦鯉米国向けに輸出されるなど、新たな時代の到来を予感させるようになっていった。1938年(昭和13年)にはサンフランシスコ築港記念万国博覧会に錦鯉が出品され好評を得るなど、錦鯉の評価は太平洋を越えた国際的なものとなっていきました。
しかし、第2次世界大戦の時代に入っていくと、ぜいたく品としてもてはやされていた錦鯉は国内でも戦時下経済体制のあおりを受け抑制される存在となり、また、国際化のきっかけとなった対米輸出についても米国において日本特産品ということで排斥されるなど、大きな打撃を受けることになります。
しかし、戦後の日本の復興にともなって、錦鯉も不遇の時代を抜け出し新たな時代に入っていきました。その象徴的とも言えるものが1947年(昭和22年)に山古志の青木沢太という人が作り出した胸鰭を金箔の舞扇のように輝かせる黄金色の鯉「黄金」の出現です。全身が小判色の金色に輝くこの錦鯉の出現によって以後50年の錦鯉の歴史も輝きを取り戻しました。
日本の経済復興と共に錦鯉の世界も急速に改良が進み、「黄金」の血液を受けて改良固定された品種は26種に及び、従来の銀鱗には見られない頚から尾の付け根まで鱗を金色や銀となって輝く新種が固定されました。品種改良も高度経済背長にあわせるように急速に進み、紅白や大正三色、昭和三色の色模様を黄金系の光リ無地に銀鱗を乗せてた品位の高いものへと美しさに豪華さを加えていきます。
戦後間もなく輸出振興のため錦鯉の英文名を「ファンシー・カープ(Fancy Carp)」とした時期もあり、英語の辞書などにも載せられているが、いつの間にか海外の愛好家や専門家、業者の中で「ニシキゴイ(NISHIKIGOPI)」が一般化し、定着して現在に至っています。
現在、錦鯉の品種は82種に及び、日本の国魚としてNISHIKIGOIの名称の下に世界の40カ国に輸出され、NISHIKIGOIの展示会、品評会などを主催する業界団体、NISIKIGOI専門業者も欧米を中心に16カ国におよぶ国々に存在するまでになっています。